2026年中国の祝日―中国雑感〔59〕―

 明年の祝日(休日)に関して、2025年11月4日(月)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2026年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この通知は年々早まっています。遅れましたが、この内容をお知らせします。

一 元旦(1月1日)

1月1日(木)~3日(土)の3日を休日。

4日(日)〔2日・金〕振替出勤日

二 春節(旧暦元旦 2月16日) 法定休日(旧暦大晦日~正月3日)

2月15日(日)~23日(火)の9日間を休日。

2月14日(日)〔2月20日・金〕・2月28日(土)〔23日・土〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月4日(土)~6日(月)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日) 法定休日(5月1・2日)

5月1日(金)~5月5日(火)の5日間を休日。

5月9日(土)〔5日・火〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月19日)

6月19日(土)~6月21日(月)の3日間を休日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月25日)

9月25日(金)~27日(日)の3日間を休日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(木)~7日(水)の7日間を休日。

9月20日(日)〔6日・火〕、10月10日(土)〔7日・水〕振替出勤日。

国務院発表原文は、

关于2026年部分假日安排的通知

2025-11-04 17:18 来源: 中国政府网

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2026年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:1月1日(周四)至3日(周六)放假调休,共3天。1月4日(周日)上班。

二、春2月15日(农历腊月二十八、周日)至23日(农历正月初七、周一)放假调休,共9天。2月14日(周六)、2月28日(周六)上班。

三、清明4月4日(周六)至6日(周一)放假,共3天。

四、劳动节5月1日(周五)至5日(周二)放假调休,共5天。5月9日(周六)上班。

五、端午6月19日(周五)至21日(周日)放假,共3天。

六、中秋9月25日(周五)至27日(周日)放假,共3天。

七、国庆节10月1日(周四)至7日(周三)放假调休,共7天。9月20日(周日)、10月10日(周六)上班。

鼓励单位和个人结合落实带薪年休假等制度,实际形成较长假期,推动错峰出行。节假日期,各地区、节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2025年11月4日

https://www.gov.cn/yaowen/liebiao/202511/content_7047099.htm

です。

(2025.12.20)

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2014年夏の春熙路―成都雑感〔155〕―

 中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、面目一新して歩行者専用道として今日に至り、日々賑わいを見せています。そこで、1年ぶりに成都を訪問した機会に、2014年6月18日(水)、夏の春熙路の様子をお見せします。

 写真1は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、南段を俯瞰したものです。中央の赤いパラソルの下にベンチがあり、休息の場となっています。右側のビルが大型商業施設の群光広場です。

 写真2は、群光広場の北入口です。地下2階の食品街にこの6月にラーメンの「一風堂」が開店しました(豚骨ラーメン39元)。

 写真3は、南段のベンチで休む成都小姐です。後方にも小姐が見えます。

 写真4は、春熙路中心の中山広場です。左側の像が辛亥革命の指導者で国父の孫中山(孫文)です。右側に見えるのは警備の武装警察隊隊員2名です。写真ではお分かりにならないかも知れませんが、サブマシンガンで武装しています。

 写真5は、北段での清掃車です。電動モーターの駆動です。

 写真6は、北段に設置された「結婚写真」所です、中国では結婚に当たって、結婚アルバムを作成するのが普通で、成都市では費用をかけても九寨溝で写真撮影をするのが人気です。もちろん女性が主役です。

 写真7は、北段端に建てられている春熙路碑です。廻りは写真のようにいつも花で飾られています。右側の壁にあるのは中華民国時代の春熙路の様の彫刻です。

 写真8は、北段を歩く成都小姐です。

 写真9は、東段に位置するイトーヨーカドー春熙店です。中国進出の1号店で、1997年11月に開店しました。その奥が2007年5月に開店した成都伊勢丹です。伊勢丹の7階レストラン街には「とんかつ和幸」と「カプリチョーザ」が入っています。また、両店地下の食品街は四川産調味料などのお土産品購入の場としていいでしょう。

 最後の写真10は、東段から紅星路三段を挿んで、右側に見えるビルが国際金融中心(IFS)で、壁にパンダが掛かっており目立ちます。オフィス・商業施設の複合ビルです。「ユニクロ」が入っており、また地下1階に「一風堂」が開店しました。なお、「ユニクロ」は春熙路付近に3店舗が展開しています。左側が成都伊勢丹の入っている利都B座で上階は5星のホテル(成都海悦酒店)となっています。

 なお、フォトアルバム「成都・2014年夏の春熙路」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkg5UCqf9HdhplW1Aです。

(2014.06.20)

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2022年小田原城の桜

 2022年4月2日(土)昼、小田原城の桜を観賞しました。満開宣言直後でした。東から西へと巡りました。まず、後北条氏小田原城の東曲輪跡に上り、天守閣を見下ろしました。写真Ⅰは、天守閣と下に桜です。

 写真2は、北入口から入り、緩い坂の途上で天守閣と坂の桜並木を撮ったものです。

 写真3は、天守閣下から見上げたものです。

 写真4は、さらに進み天守閣南西角から撮ったものです。

 写真5は、ちょっと位置を変えて撮ったものです。

 写真6は、さらに進み天守閣入口階段から全景を写し込んだものです。

 写真7は、本丸に入り、南東から天守閣を撮ったものです。

 写真8は、東から天守閣を撮ったものです。

 写真9は、同じく東から天守閣全景を撮ったものです。

 写真10は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜拡大です。

 写真11は、同じく桜拡大です。

 写真12は、本丸東堀土手の桜です。

 写真13は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜です。

 写真14は、二の丸の桜並木です。

 写真15は、同じく桜並木です。

 写真16は、学橋から馬出門土橋への堀の桜並木です。

 写真17は、馬出門前の桜です。

 写真18は、馬出門土橋から南の堀の桜並木です。

 写真19は、馬出門土橋から学橋への堀の桜並木です。

 最後の写真20は、堀越の天守閣、常盤木門と桜です。

(2022.04.12)

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世田谷・大田区の古墳―歴史雑感〔100〕―

 2025年11月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「東京の古墳を巡る(世田谷・大田方面)」で古墳巡りをしました。

 最初は玉川野毛町公園(世田谷区野毛1-25)にある野毛大塚古墳です。野毛古墳群の中心的な本古墳は、5世紀初期に造営されたと推定され、長径68m・高約10mの三段築成後円部に、長15.5m・幅28mの前方方形部、その西側に長7.5m・幅10mの方形造出部を有する全長83.5m幅の帆立貝型古墳です。平成初年期の発掘調査で、既知の石棺とは別に3基の木棺と埋葬遺物が発見されました。遺物には多くの武具を含み、一括して重要文化財に指定されました。写真1は、本古墳西側から後円部を見たものです。この左横から頂部に上れます。

 写真2は、前方方形部から後方に後円部を見たものです。前方部の土は失われて復元したものです。

 写真3は、後円部頂部から下に前方方円部を見たものです。また右に復元した方形造出部が見えます。ご覧のように都民の憩いの場となっています。

木棺等の発掘場所とこの中の主遺物を示した石版が頂部に置いてあり、写真4は、第1主体部等を示したものです。

 写真5は、野毛大塚古墳の西に位置する荏原台古墳群の御岳山古墳(世田谷区等々力1-18)です。本古墳は全長57m・現高7mの帆立貝型古墳で、5世紀後半から6世紀中頃の造営と推定されています。そして、野毛大塚古墳の後継首長墓と推定されます。

  写真6は、荏原台古墳群の宝菜山古墳(大田区田園調布4-4-1)です。本古墳は前方後円墳で昭和初期の土取で後円部の多く失われましたが、発掘により全長97.5m・後円部経52m・後円高11m・前方部幅37m・前方部高8mと推定でき、4世紀前半の造営と推定できます。

 多摩川台古墳群(大田区田園調布1-63-1)は8基あり6世紀前半から7世紀中頃までのものです。写真7は、7世紀中頃までの円墳の第6号墳です。

 最後の写真8は、多摩川台古墳群の最南側の亀甲山古墳(大田区田園調布1-63-1)です。本古墳の名は墳形が亀に似ていることからきており、全長107.25m・前方部49.5m・前方部高7.5m・後円部経66m・後円部高約10mの前方後円墳です。発掘調査がなされていないためもあり造営年代は不明です。後円部が削られておりこれを撮ったものです。

(2025.11.25)

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2025年三星堆博物館―歴史雑感〔99〕―

 三星堆博物館は、1997年10月、三星堆遺跡地区の東北角に開館しました。徳陽市広漢市西郊外約7kmの南興鎮の鴨子河南岸に位置し、成都市から東北38kmにあります。その後発掘調査が進み、新たな遺物展示もあり増設が必要となり、旧館をに替わり新館(面積約5.44万㎡)が建築され、2023年7月26日、開館開放され博物館は一新しました。従来の1986年発掘遺物に加え、2019~22年に発掘された遺物が新たに展示に加わりました。2025年11月7日(金)午前、新装なった本博物館を見学しました。以下、展示物の幾つかを順次お見せします。

 写真1は、陶高領壷(1986年発掘 殷後期)です。

 写真2は、玉有領璧(1986年出土 殷後期)です。

 写真3は、城壁切取り展示です。

 写真4は、青銅扭頭跪坐人像(2021年出土 殷後期)です。

 写真5は、玉戈(1986年出土 殷後期)です。

 写真6は、青銅人頭像(2022年出土 殷後期)です。

 写真7は、青銅立人像(1986年出土 殷後期)です。高261cm(人像高172cm)・重量180kgの世界の最大の青銅立人像です。

 写真8は、黄金面單青銅人頭像(1986年出土 殷後期)です。

  写真9は、金杖(1986年出土 殷中期)です。全長143cm・直径2.3cm・重量463gです。上端(左)の平雕紋飾図案(魚・鳥・人)があるところです。

 写真10は、金面單(2022年出土 殷後期)です。

 写真11は、青銅持璋小人像(1986年出土 殷後期)です。

 写真12は、玉璋(1986年出土 殷中期)です。

 写真13は、青銅尊(2021年出土 殷後期)です。

 写真14は、青銅神嘼(2022年出土 殷後期)です。

 写真15は、青銅嘼首冠人像(1986年出土 殷後期)です。

 写真16は、青銅神塼底座(2022年出土 殷後期)です。

 写真17は、青銅縦目面具(1986年出土 殷後期)です。高82.5cm・幅78cmです。

 写真18は、青銅縦目面具(1986年出土 殷後期)です。本博物館を代表する目の飛び出た特徴ある遺物で、高65cm・幅139cm、突出した瞳孔長16.5cm・径9cmです。世界最大の青銅面具です。

 写真19は、青銅面具(2022年出土 殷後期)です。

 写真20は、青銅持龍競形器立人像(2022年出土 殷後期)です。

 写真21は、青銅爬龍器蓋(2021年出土 殷後期)です。

 写真22は、青銅虎頭龍身像(2022年出土 殷後期)です。

 写真23は、青銅太陽形器(1986年出土 殷後期)です。

 写真24は、青銅鳳鳥柱頭(2022年出土 殷後期)です。

 最後の写真25は、青銅神樹(1986年出土 殷後期)です。全高396cm(樹高384cm)で、世界最古の神樹です。古蜀王国の原始宗教を示して、古代人の宗教観念が理解できます。3段に枝が出て、各段3枝ずつ張っており、各枝には鳥が飾られて、全9鳥が見えます。枝の先端には果実があり、樹の下部には1旒の龍が下向きに匍っており、神木である扶桑の木を表しています。

 なお、フォトアルバム「四川・三星堆博物館2025年」があります。また、以前の訪問記「三星堆博物館―四川雑感〔10〕―」もご覧下さい。三星堆博物館の公式サイトはhttps://www.sxd.cn/です。

(2025.11.14)

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2025年西南交通大学日本語学科での講義

 2025年11月6日(午前)、コロナで行けなかった西南交通大学日本語学科を6年振りで訪問しました。その際4年生に講義を行ないました。卒業論文を控えているので、「論文作成について」と題する講義です。

 写真1は、講義を受ける学生達です。

 写真2は、講義後の記念撮影です。

(2025.11.12)

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福岡市内元寇史跡―歴史雑感〔98〕―

 2025年10月9日(木)午後、福岡市内の元寇史跡を巡りました。最初は筥崎八幡宮(福岡市東区箱崎1-22-1)です。宇佐八幡宮、石清水八幡宮と共に三大八幡宮とされています。

 写真1は、石造の一之鳥居(重要文化財)です。慶長14年(1609)に藩主黒田長政が建立しました。

 写真2は、楼門(重要文化財)です。文禄3年(1594)に筑前領主小早川隆景が建立し、三間一戸入母屋造・檜皮葺です。そして、ご覧の扁額は、文永11年(1274)蒙古襲来で炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた宸筆を、文禄年間に隆景が謹写拡大したもので、これにより伏敵門とも呼ばれています。

 写真3は、楼門から見た拝殿です。拝殿・本殿(重要文化財)は廻廊に囲まれてかつ楼門は閉ざされており入ることが出来ません。拝礼はここで行ないます。なお、両殿は天文15年(1546)に大宰大弐大内義隆が再建したものです。

 次いで、生の松原元寇防塁跡(福岡県福岡市西区生の松原11)です。博多湾に沿って約20㎞の海岸に築かれた石築地が元寇防塁で、生の松原の防塁は東側を肥前御家人が西側を肥後の御家人が担当し、肥前は姪浜砂岩を肥後は長垂山の花崗岩を使いました。

 写真4は、東側の防塁跡です。

 写真5は、復元された防塁跡です。石の色違いで担当国が違うことが分かります。

 写真6は、西側の防塁跡です。

 最後の写真7は、改めて東側防塁跡と奥に復元防塁です。

(2025.10.15)

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宗像大社―歴史雑感〔97〕―

 2025年10月9日(木)午前、宗像大社辺津宮(福岡県宗像市田島2331)を参拝しました。JR鹿児島本線赤間駅・東郷駅から西鉄バスで宗像大社前下車です。本社は日本最古の神社の一つです。御祭神は天照大神の三女神で、沖津宮(田心姫神 たごりひめのかみ)、中津宮(湍津姫神 たぎつひめのかみ)、辺津宮(市杵島姫神 いちきしまひめのかみ)にそれぞれ祀られ、この三宮を総称して、宗像大社といいます。古来から海上交通の神として崇敬されていました。

 写真1は、奥に神門と本殿を囲む廻廊です。

 写真2は、拝殿と参拝する人です。

 写真3は、拝殿と奥に本殿です。拝殿は筑前領主の小早川隆景が天正16年(1590)に再建、本殿は天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞が再建しました。ともに重要文化財です。

 写真4は、奥から見た本殿と拝殿です。

 次いで沖ノ島(沖津宮)が信仰の場として古代には多くの祭祀品が奉献され、この発掘された遺物(国宝)を展示している神宝館(入場料800円)に向かいます。1階展示室の展示物青銅鏡の中から代表的なものをお見せします。写真5は、内行八花文鏡(4~5世紀)

 写真6は、鳥文縁方格規矩鏡(4~5世紀)です。

 写真7は、半円方形帯画像鏡(4~5世紀)です。

 写真8は、阿弥陀経石(重要文化財)です。正面が阿弥陀仏像で、背面に阿弥陀経を刻んでいます。これは沖ノ島の発掘品ではなく、鎌倉時代の寄進です。

 写真9は、金製指輪です。内径1.3cmで中央菱形部分には4弁の花文があしらわれており、5~6世紀のものと推定されています。

 2階に移動し、写真10は、挂甲小札(5~6世紀)、即ち古墳時代の鎧の部品である小札です。

 写真11は、金銅製歩揺付曇珠です。尻に伸びた革帯(辻)に付ける装身具で、6~7席のものと推定されます。

 写真12は、金銅製雛形五弦琴(7世紀)です。和琴のミニチュア品です。

 写真13は、須恵器台(7世紀)です。

 写真14は、金銅製龍頭一対です。

 写真15は、奈良三彩小壷です。

 写真16は、銅製雛形紡織具の刀抒・麻笥です。

 2階に移動して所蔵古文書である「宗像神社文書」(重要文化財)を見ます。写真17は、寛喜三年(1231)四月五日付官宣旨です。筑前国(宗像郡)曲村40町歩を宗像大社修理料として寄進する内容です。

 写真18は、(永禄七年)十二月十二日付聖護院道増書状です。明から帰途の京衆船が難破してこの寄者(積荷)を慣例により宗像社が取得したのに対して、船主が返還を求めたのを、将軍足利義輝使者として道増が求めた内容です。なお、この時の寄物を本殿再建費に当てて出来たのが現存する本殿です。

 部屋中央にあるのが、写真19の、石造狛犬(重要文化財)です。南宋からの渡来品と考えられ、背面に建仁三年(1203)と奉納者の陰刻銘があります。

 最後の写真20は、より大型の左側の木造狛犬(重要文化財)です。

(2025.10.14)

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西安交通大学日語系2期生・卒業35周年同窓会

 2025年9月15日(月)~18日(木)の4日間、日本で西安交通大学日語系2期生の卒業35周年同窓会を行ないました。2期生は1986年に入学し90年に卒業した15名(女10名・男5名)から6名(中国から4名、アメリカ・カナダから各1名)、それに日語系創立の胡明耀先生と私の8名が参集しました。15日は各自が日本に参集しました。

 16日はみな下田で集合です。5名の卒業生は私と共に、踊り子9号東京発12時に乗ります。写真1は、乗車前のものです。

 写真2は、「駅弁屋祭」で購入した女性陣の駅弁です。みな違う駅弁を購入しています。

 写真3は、本日の泊まるホテル下田大和館に全員集合し、撮ったものです。15時前です。

 写真4は、ホテルから直接出られる南に広がる多々戸浜海岸に下り、撮ったものです。波に浸っています。

 写真5は、18時からの夕食の磯会席で、写真には蓋に被せた鮑等が見えます。料理は基本的に海産物で、次いで伊勢エビのお造りが出、伊豆半島産の金目鯛に煮付けが最後です。

 写真6は、食事中の女性二人です。

 17日は本来下田観光でしたが、温泉にゆっくりと浸かり等して時間を過ごしたこともあり、写真7のように、ホテルのロビーでお喋りを楽しみました。

 写真8は、13時前に伊豆急下田駅改札前で撮ったもので、顧先生は先に帰ります。

 駅中のレストランで昼食後、幸いにも取れた14時18分発のサフィール踊り子2号個室で撮ったのが、写真9です。

 写真10は、個室内でスマホで記念写真を撮っているところです。

 17時過ぎには新宿に戻りました。夕食は西新宿の焼肉清香苑別館で19時過ぎから行いました。写真11は、乾杯です。

 最後の写真12は、食事途上での乾杯です。網では海鮮類を焼いています。

(2025.09.22)

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秋田城跡―歴史雑感〔96〕―

 2025年8月13日(水)午前、秋田城跡(高清水公園 秋田県秋田市寺内大畑5)を訪れました。公共交通は秋田中央交通のバスで秋田駅西口5番乗場からで、秋田城跡歴史資料館前下車です。

 秋田城は天平5(733)年に出羽柵(山形県酒田市)が秋田村高清水岡に移転したのが始まりで、所謂「蝦夷征討」の拠点となりました。宝亀11(780)年に国司1名を専任させるになり、次官がこれに当たり秋田城介と称しました。延暦23(804)年に秋田城が停廃されて秋田郡が設置され機能は郡に移管されますが、城自体軍事機構としては存続します。11世紀以降に城内の主要な遺構が確認されていないので、この頃には衰退していたと考えられています。

 秋田城跡とは道路を挟んで西側に秋田城跡歴史資料館(入場料310円 開館時間9~16時半)があります。写真1は、この展示の最初の井戸跡出土木簡です。

 写真2は、出土瓦です。

 写真3は、官人が使用した出土品です。最右のは木簡を修正(削る)するための刀手(小刀)と砥石です。

 写真4は、奥の展示室内です。左側は水洗トイレ模型と出土品です。

 写真5は、秋田城跡全体模型です。東から西へと見たものです。

 写真6は、正殿跡です。東南から見たものです。

 写真7は、政庁東門脇にある第1期政庁(733~770年頃)模型です。右隣には第2期(770~800年前後)・第3期(800年前後~830年頃)の政庁模型が展示されています。

 写真8は、内側から見た復元された外郭東門と外郭築地です。また門から政庁へ向かう東大路は道路幅12mで側溝が付いていました。

 写真9は、外側からの外郭東門です。

 写真10は、復元された水洗厠です。隣の瓶から水を汲み流します。

 写真11は、同じく水洗厠の内部です。

 写真12は、復元された水洗厠建物です。

 写真13は、外郭東門下に位置する井戸の復元です。

 写真14は、復元された井戸建物と左奥に外郭東門と築地です。

 写真15は、外郭東辺逐次之外側に当たる鵜の木地区の建物跡です。

 最後の写真16は、同じく建物跡で、遺構と遺物から奈良時代に役所としてっりようさっれていたと考えられます。

(2025.08.30)

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リゾート白神6号からの夕景

2025年8月12日(火)、弘前16時6分発なお、リゾート白神6号に乗りました。車窓からの夕景をお見せします。なあお、深浦の日没時間は18時42分で、深浦発は18時22分でした。

写真1は、陸奥柳田駅を過ぎ、北金ケ崎漁港手前から撮ったものです。

写真2は、風合瀬駅を手前で撮ったものでえす。

写真3は、広戸駅を過ぎ深浦駅への途上で撮ったものです。

写真4は、更に進んだところで撮ったものです。

写真5は、間もなく深浦駅で撮ったものっで須。

写真6は、陸奥浜辺駅~十二湖駅への途上から撮ったものです。既に日は没しています。

写真7は、列車を徐行させた大間越dr撮ったものです。

最後の写真8は、同様に大間越で撮ったものです。

(2025.08.26)

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寒川神社―歴史雑感〔96〕―

寒川神社―歴史雑感〔96〕―

 2025年7月17日(木)午前、寒川神社(神奈川県高座郡寒川町宮山3916)を参拝しました。寄り駅はJR相模線宮山駅で、案内に従って道を右(北)に取り道なりに約500mで、本社です。祭神は寒川比古命・寒川比女命(寒川大明神)です。神亀4年(727)に社殿建立と伝え、『延喜式』では名神大社に格付けされました。そして、中世では相模国一之宮となっています。

 写真1は、手前が神池橋で、奥が三の鳥居です。橋は2011年に架け直した太鼓橋です。鳥居は1990年に架け直した桧木造りの明神鳥居です。

 写真2は、三の鳥居と奥に参道です。

 写真3は、1993年に竣工した神門です。

 写真4は、南西に向いた御本殿です。1997年竣工です。

 写真5は、同じく御本殿の拡大です。

 写真6は、右手前は2012年に建立された方位盤・四神・渾天儀で、奥に御本殿です。

 写真7は、手前が神木で、奥が御本殿です。

 写真8は、神門を奥に見た参道です。

 写真9は、安藤からの三の鳥居と神池橋です。

 最後の写真10は、一の鳥居で、相模線大門鳥居二北側に位置します。

(2025.07.21)

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「歴史と中国」のgooブログからWordPressブログへの再移管

 2025年11月18日にgooブログは終了予定なので、WordPressブログ(https://kanazawa45.wordpress.com/)に5月から移行します。2011年10月9日付「周口店北京猿人遺址(遺跡)―中国雑感〔10〕―」から2025年4月29日付「韮山城跡―歴史雑感〔94〕―」までのgooブログは移管済みです。但し、gooブログへのリンクは終了となります。

(2025.05.10)

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韮山城跡―歴史雑感〔94〕―

 2025年4月24日(木)午前、韮山城跡(静岡県伊豆の国市韮山438−3)に行ってきました。韮山城は後北条氏初代北条早雲の生涯の居城として知られてます。第5代当主北条氏直の弟の城主北条氏規により対豊臣戦を迎えるため天正7年(1588)から大改修が行なわれ、現在の遺構はこれによっています。本城と新たに構築された南の天ヶ岳砦と和田土手砦等から構成されています。本城は南北約400m・東西約100mの細長い尾根の籠城山上に築かれています。南北に曲輪が並ぶ構造となっています。攻城側の豊臣軍は箱根の山中城は強襲により1日で落城させましたが、韮山城では包囲策を取り周囲に陣城を築きました。

 写真1は、韮山駅から蛭が小島への道の途上で韮山城のある山全景を撮ったものです。手前の低い丘で、右(南)か左(北)へと本丸、二の丸、権現曲輪、三の丸と並んでいます。なお左下の建物は県立韮山高校です。

 写真2は、本丸の先から西に延びる尾根の堀切3です。城池側から撮ったものです。更に西には掘切4があります。

 池側から上って撮ったのが、写真3の二の丸です。ご覧のように曲輪は土塁で囲まれています。

 写真4は、本丸から北へ富士山を望見したところですが、曇で隠れています。なお、本丸・二の丸間には堀切1があります。

 写真5は、本丸から南に続く尾根曲輪を見たものですが、崖崩れの危険があるため立入り禁止となっています。奥の山は天ヶ岳です。ご覧のように韮山城を見下ろす位置にあり、北条氏規により天ヶ丘砦と東側(右)に土手和田砦が構築されました。

 写真6は、現在の本丸の登り口です。西側には細長い腰曲輪が設けられています。

 写真7は、権現神社のある権現曲輪です。池からの道はこの郭南側に出ます。権現曲輪・二の丸間には堀切2があります。

 最後の写真8は、権現曲輪南西の出口ですが、「寛政絵図」には記載がなく近世に出来たものと思われます、ただこれで土塁の高さが分かります。下ると韮山高校内に出ます。

(2025.04.29)

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2025年三ツ池公園の桜

 2025年4月4日(金)午前、三ツ池公園に観桜に行ってきました。そこで、以下にこの桜の写真をお見せします。

(2025.04.08)

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大仏寺石窟―中国雑感〔58〕―

 2025年3月31日(月)午前、西安市から西北に約180km弱の陝西省咸陽市彬州市城関街道大佛寺村の大仏寺石窟に行ってきました。入場料は35元(夏季)・20元(冬期)です。本石窟は北朝時代(439~581年)に始まり、唐代(618~907年)に隆盛となり、宋・金・元各代を経て改塑・補修されました。本石窟はシルクロード北道に位置した最初の石窟寺です。唐太宗李世民が寺を創建し応福寺と名付け、宋仁宗の養母劉太后慶寿で慶寿寺と改め、明景泰年間に大佛寺と称するようになりました。1988年に国家文物重点保護単位に指定され、2014年に世界文化遺産のシルクロードの一つとして入りました。400mの岩面上に130の洞窟、1988の造像が掘られています。特に高20mの阿弥陀大仏は窟内大仏として世界一で、盛唐の石窟像を代表しています。

 写真1は、世界文化遺産であることを示す碑です。奥の中央が大仏窟で「明鏡壹」額名が掲げられていす。

 中央の大仏窟の右側(西)の西閣造像窟です。高1.83m、幅3.65mです。写真2は、奥の1仏2弟子2菩薩の5像です.

 初唐期の掘られた羅漢洞で、主室と東西室に分かれ、主室は奥行き6.5m、平均幅4.19mです。写真3は、主室奥の立仏像です。

 写真4は、おなじく主室東壁の立像群です。

 写真5は、黄明碑です。高3.95m・幅1.12mの、清康熙年間の陝西布政司黄明の大仏寺石窟修繕記念碑です。

 写真6は、大仏窟の阿弥陀仏像です。本窟は東西幅34.5m、南北奥行き18m、高約31mの広さで、大小1001の造像が彫られています。阿弥陀仏像は蓮台上に坐し、高20m・頭高5.2m・手高4.5m・指高2mです。

 写真7は、左の観世音菩薩立像で、高17.6mです。

 写真8は、右の大勢至菩薩立像で、高は同じです。

 写真9は、同じく阿弥陀仏像で

 写真10は、鐘です。明景泰元年(1450)に鎮守甘粛省の宦官劉永誠が鋳造し、重さ1000斤・高1.45m・口径0.9mです。

 大仏窟に左側(東)に千仏洞があります。長11.48m・幅9.45m・高3.21mで、3本の通路があります。696体の造像には色々な仏像・菩薩像があります。写真11は、右の通路奥の造像です。

 最後の写真12は、中央通路奥の造像で、いずれも中央は仏像です。なお石窟の多くの像には首なしのものが多く、おそらく文革の被害を受けたものと思われます。

(20250.04.07)

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西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会

 2025年3月29日(土)午後、西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会を科学館で行ないました。本学科は、1985年9月、外語系科技日語専業(科学技術日本語専攻)の本科(4年制)として、既設の日本語専攻が文系であり科学技術に対する知識がどうしても弱くて、第1線の必要に応えられていなかったので、理系に強い日本語人材養成として中国で初めて創設されました。このため大学統一試験では理系受験、理系基礎科目単位取得を必須としています。1989年7月、1期生14名を卒業させました。本専攻の成功を見て90年代には有名理工系大学には同様な専攻が設けられることになりました。西安交通大学のそれはその嚆矢なのです。現在は学部のみならず博士・修士課程を設け既に博士も誕生しています。

 本大会には百名半ばの卒業生が結集しました。14時前に開会し18時半に終えました。以下大会の様子を順次お見せします。

 科学館前に掲示された「日語専業成立40周年慶祝大会」の前で大会前に多くの卒業生が記念撮影をしていました。写真1は、この中で30周年に続いて同窓会を行なう2001期生が卒業20周年の横断幕を持っているものです。

 写真2は、開会後一旦科学館前に出て記念写真を撮ったものです。

 写真3は、記念写真撮影後にまず祝辞を述べる日語系主任の曹紅荃教授です。

 写真4は、日語専業創始者の顧明耀教授の祝辞です。

 写真5は、同じく顧明耀教授です。

 写真6は、日本人教師として最初に赴任した私です。

 写真7は、同じく河路由佳杏林大学特任教授の祝辞です。

 写真8は、卒業生代表の1期生(85級)黃娟娟さんの祝辞です。

 写真9は、在校生代表の24級(1年生)の沈仲義さんの祝辞です。15時40分過ぎで、ここで休憩が入り、喉を潤します。

 休憩後の16時20分過ぎからは各界で活躍する卒業生の談話です。写真10は、金融関係者です。

 写真11は、企業関係者です。

 写真12は、最後の創業関係者です。以上で大会は終り、予定を過ぎ18時30分でした。

 次いで場所を南洋大酒店に移し、晩宴は19時過ぎに始まり21時前に終えました。最後の写真13は、顧教授と1期生6人です。

 なお、30周年は、

https://blog.goo.ne.jp/kanazawa4512/e/4f4dc9f563501b18506184d1d236d2db

です。

(2025.04.05)

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橘樹郡衙遺跡と影向寺―歴史雑感〔94〕―

 2025年3月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「国史跡橘樹郡衙遺跡と影向寺を巡る」に参加しました。JR南部線武蔵新城駅に集合し、まずバスで影向寺に向かいます。

 写真1は、影向寺薬師堂(川崎市宮前区川本町3-4-4)です。本寺は古刹として知られ、本寺及び周辺の発掘調査で古代寺院遺構(奈良時代)等が確認されました。古代寺院遺構・関連遺構を影向寺遺跡と呼称しています。

 写真2は、古代寺院の三重塔心礎とされ本寺の霊石として信仰されてきた影向石です。中央の穴に仏舎利が収められていたとされています。

 写真3は、本寺本尊の木造薬師如来坐像及両脇侍立像(重要文化財)です。一木造の彫眼で11世紀後半制作です。以前は薬師堂内にありましたが、保護のため別堂に収められいます。他に木造十二神将立像十二体(南北朝時代)が眷属として侍立しています。

 写真4は、木造薬師如来坐像です。

 次いで、東に千年伊勢山台遺跡・橘樹郡衙遺跡ヘと移動しました。ここは西から東へと橘樹郡家舘・橘樹郡郡庁・橘樹郡正倉院のおよそ3か所からなり、正倉院遺跡が橘樹歴史公園となっています。写真5は、復元された郡衙正倉です。

 写真6は、同じく位置を変えて撮った正倉です。

 写真7は、正倉内部から見た天井です。

 次いで、中原街道を南に越えます。写真8は、子母口富士見台古墳です。直径約17.5m、高約3.7mで、当初はより大きかった円墳と想像されます。方形と思われる段が上に被さっています。

 写真9は、子母口貝塚です。8100年前の地層から貝類・子母口式土器が出土しており、更に下の地層からも撚糸文系土器が出土しています。

 最後の写真10は、橘樹神社社殿です。橘樹郡総社であり、日本武尊妃弟橘媛伝承の由来がある古社です。

(2025.03.26)

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2025年小田原城の梅

 2025年2月27日(木)午後、下田からの帰り、今年は梅の開花が遅れていましたが、小田原城の梅情報を知り観梅に行きました。これをご覧に入れます。

 写真1は、二の丸歴史見聞館前の梅です。

 写真2は、白梅の拡大したものです。

 写真3は、紅梅の拡大したものです。

 写真4は、二の丸東堀下の梅で、後方が銅門です。

 写真5は、白梅です。

 写真6は、常盤木門を背景とした白梅です。

 写真7は、常盤木門を背景とした紅梅です。

 写真8は、常盤木門を背景とした白梅です。

 写真9は、ぼかした常盤木門を背景として白梅です。

 写真10は、拡大した白梅です。

 最後の写真11は、拡大した紅梅です。

(2025.03.04)

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下田城―歴史雑感〔93〕―

 025年2月27日(木)午前、後北条氏の下田城遺址を訪れました。後北条氏が対豊臣戦を覚悟して、水軍の拠点である下田港防衛のために、天正16(1588)年に下田城は新規といえるほどの大改修がなされたと推測されます。本城は、最高地点に位置する伝天守台(標高68.7m)を各曲輪の結節点として、北に延びる曲輪と東の二の曲輪の尾根状曲輪の南側下に障子堀である横堀(空堀)を構え、南に対する主防御線として、また海際に物見台を構え港への船の出入りを見張らせ、この防御線北側の下に現在の開国広場に広い曲輪(居住地)を抱えた構造となっています。

 写真1は、稻生沢川にかかるみなと橋からの下田城遠景です。

 写真2は、左が下田城石碑、右が下田公園碑です。

 写真3は、伝天守台から北に延びる曲輪北端の物見台からの俯瞰です。左に稻生沢川、右に下田港で、奥に寝姿山です。

 写真4は、奥に物見台跡です。

 写真5は、伝天守台近くからの下に空堀跡です。

 写真6は、伝天守台跡で、奥(北)は下田湾です。但し、実際に天守があったわけではなく、各曲輪の結節点としての指揮所があったところとされています。

 写真7は、伝天守台への登り道です。

 写真8は、伝天守台の東に延びる二の曲輪からさらに南に行ったところのお茶ヶ崎展望台(物見台跡)からの下田湾です。港に出入りする船は一望です。

 写真9は、展望台から奥に大浦です。

 写真10は、左に二の曲輪、右に天守台間の切通しです。ただ、道路を通すためかなり拡張されています。

 写真11は、二の曲輪下の空堀です。

 写真12は、伝天守台下の空堀です。

 写真13は、切通しと空堀です。伝天守台の比高が約10mであることが分かります。

 写真14は、伝天守台下の空堀を西から見たもので、堀が障子堀であった跡が堀を横断した高みで確認できます。

 写真15は、萩の丘(志太ヶ浦展望台の先)です。

 写真16は、萩の丘からの大浦です。

 写真17は、馬場ヶ崎展望台(物見台跡)です。

 最後の写真18は、馬場ヶ崎展望台からの下田港です。

(2025.03.03)

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